LINEMO

スタンプからSIMカードへ
日本では、誰かに電話番号を尋ねることが、どこか古風で、時代遅れにさえ感じられることがあります。ここ何年もの間、本当の問いは「あなたのLINE IDは?」だったからです。遊び心あふれるスタンプや手軽なグループチャットで知られるこのユビキタスなメッセージングアプリは、単なるソフトウェアではありません。それは日本社会の結合組織であり、他愛ない噂話から緊急警報まで、あらゆるものが展開されるデジタルの広場なのです。
メッセンジャーの大胆不敵な呼び出し
だからこそ、この一見摩擦のないデジタル領域の支配者であるLINE株式会社が、明らかに摩擦の多い携帯電話プランの世界に飛び込むと決めたとき、誰もが眉をひそめたのは当然でした。無料メッセージングで築き上げられた帝国が、資本を飲み込み、規制に縛られ、さながら電話ボックスでのナイフファイトのような日本のモバイル市場に、果たして分け入ることができるのでしょうか?最終的にLINEMOと名付けられることになるこの冒険は、単にSIMカードを売るという話ではありませんでした。それは、デジタル世界での圧倒的な存在感が、通信業界における影響力へと転換できるのかを問う、実に興味深い試金石だったのです。
メッセンジャー、大海へ漕ぎ出す(LINEモバイル)
LINEの通信事業への野心の最初の囁きは、LINEMOがローンチした2021年ではなく、その5年前のLINEモバイルに遡ります。当時、LINEの最高戦略・マーケティング責任者(CSMO)であった舛田淳氏にとって、それはLINEの次のチャレンジであり、コミュニケーションを活性化させるという目的が込められていました。数千万人規模というアプリの巨大なユーザー基盤を活用し、勃興しつつあったMVNO(仮想移動体通信事業者)、いわゆる格安SIM市場の顧客を吸い上げるというロジックは、一見すると魅力的でした。
この挑戦の舵取りを任されたのは、嘉戸彩乃氏。日本の通信業界においては異例とも言える若き女性社長でした。彼女はLINEモバイルで、モバイルを変える、新しいスタンダードを創るという意気込みで、サービス開始に臨みました。舛田氏が既存のMVNO市場を選択肢が多すぎて分かりにくいと評したように、LINEモバイルが目指したのは徹底的なシンプルさと分かりやすさでした。嘉戸氏は、とにかくシンプルに、わかりやすく、ユーザーに寄り添うサービスであることを繰り返し強調しました。ターゲットとして見据えたのは、スマホ初心者や若年層。嘉戸氏は「初めてスマホを持つ方、若年層に」と明確に述べ、彼らが抱えるであろう価格や複雑さへの不安を取り除くことを目指しました。
その思想は、料金プラン、コミュニケーションフリープランに象徴されていました。LINEの主要機能(トーク、タイムライン、無料通話)のデータ通信量をカウントしないこのプランは、舛田氏が抱いていた、LINEのサービスをストレスフリーで使ってほしいという想いを形にしたものでした。MVNOとしてドコモやソフトバンクのネットワークを借りることで、インフラ構築のリスクは回避しましたが、それは同時に、利益率の低さやサービス品質(特にピーク時の速度)がネットワーク提供者に左右されるという構造的な課題を抱えることも意味しました。嘉戸氏はLINEモバイルが目指すのはコミュニケーションの会社であると語り、LINEらしさを追求しましたが、MVNOという枠組みの中で、価格といくつかのアプリ連携特典以外での差別化を図り、安定した収益を確保することの難しさに直面することになります。
巨人の肩の上で、再び帆を張る(LINEMO誕生)
MVNOモデルの限界が見え始め、大手キャリアがサブブランド攻勢を強める中、転換点はソフトバンクとの連携という形で訪れました。2018年の資本業務提携を経て、2021年3月、ソフトバンクはLINEモバイルを完全子会社化。これは単なる買収劇ではなく、両社の戦略的な思惑が合致した結果でした。
ソフトバンクは、規制当局からの値下げ圧力と楽天モバイルの台頭という逆風の中、新たな対抗軸を模索していました。特にドコモのahamo、KDDIのpovoといったオンライン専用ブランドの登場は、ソフトバンクに同様のコンセプトを持つ新ブランドの立ち上げを急がせました。そこで白羽の矢が立ったのが、若年層に絶大な人気を誇るLINEブランドだったのです。ソフトバンクの常務執行役員(当時)である寺尾洋幸氏は、後にLINEMOとなる新ブランド構想(当時はSoftBank on LINE)について、デジタルネイティブのための新しいブランドであり、オンラインで完結するシンプル・ワンプライスがコンセプトだと語りました。
一方、LINE側も、MVNO事業の壁に直面し、より強固なネットワーク基盤と資本力を持つパートナーを必要としていました。LINEモバイルという実験的な航海を経て、そのブランド価値はソフトバンクの新たな戦略、すなわちahamo/povoへの直接的な対抗馬を投入するという目的に再利用されることになったのです。LINEモバイルは、LINEMOへと繋がる橋渡し役としての役割を終えました。
LINEMOは2021年3月17日に正式にサービスを開始。寺尾氏が語ったように、その核心はLINEとの連携度合いにありました。特にLINEギガフリーは、LINEの主要機能(トーク、音声・ビデオ通話)のデータ消費をゼロにするという、競合にはない強力な武器となりました。寺尾氏はこれを「LINEが使い放題になる」と表現し、ahamoやpovoとの明確な差別化ポイントとして強調しました。また、当初発表された価格設定(20GB+5分通話無料で2,980円)が、発売直前に変更され、通話パックをオプション化して2,480円(税抜)となった背景には、LINEユーザーの実際の利用実態(アプリ内通話の多用)と、povoとの価格競争を意識したソフトバンク側の迅速な判断がありました。LINE側の舛田氏も、この価格設定においてコストフレンドリーであることが重要だったと述べています。LINEMOは、LINEの楽しさとソフトバンクのネットワーク品質および驚きを融合させ、デジタルネイティブに最適化された、シンプルで分かりやすいサービスとして船出したのです。
喝采と静寂の狭間で響く声
LINEMOは、その狙い通り、ターゲット層の心を掴みました。独立した調査機関による顧客満足度調査では、常にオンライン/バリューブランドカテゴリーでトップクラスの評価を獲得しています。特に当初のミニプラン(3GB/990円 税抜)は、ライトユーザーからの強い支持を集めました。ユーザーは、信頼性の高いソフトバンクネットワーク、そしてLINEギガフリー(スマホプラン、旧ミニプラン対象)という他にない価値を高く評価しています。
しかし、その喝采は、まだ限定的な範囲に留まっています。LINEMOの市場シェアは依然として控えめで、大手キャリア本体はもちろん、同じソフトバンクグループのY!mobileやKDDIのUQ mobileといったサブブランドの後塵を拝しています。その理由は、LINEMOが持つ潔さの裏返しでもあります。オンライン限定のサポート体制は、デジタルネイティブにとっては効率的ですが、多くのユーザーにとっては依然として高いハードルです。持ち込み端末が前提であり、最新スマートフォンとのセット販売はありません。プランはシンプルですが選択肢が少なく、大容量プランや無制限プランを求めるユーザーには不向きでした(※ベストプラン登場前の状況)。データ繰り越しや家族割引、固定回線とのセット割引といった、従来の携帯キャリアが提供してきた特典も提供されていません。LINEMOは、特定のニーズを持つ層に深く刺さる一方で、その鋭さゆえに、より広い層へのアピールには課題を抱えていたのです。
巨大な銀河系で、シンプルさの灯を灯し続けられるか
LINEMOを取り巻く環境は、2023年10月に大きな転換点を迎えました。親会社であるLINEと、Yahoo! Japanを運営するZホールディングスが経営統合し、巨大テック企業LINEヤフー株式会社(LY Corporation)が誕生したのです。共同所有者であるソフトバンクグループと韓国のネイバーコーポレーションの下で進められたこの統合は、壮大なシナジーとライフプラットフォーム構想を掲げる一方で、LINEMOのようなシンプルさを特徴とするサービスの立ち位置に、新たな複雑さをもたらしました。
未来に目を向けると、LINEMOはこの巨大なデジタル国家の中を進むことになります。ソフトバンクはマルチブランド戦略を堅持し、市場を細分化していますが、LINEMOは単なるエントリープランに留まるのか、それとも独自の進化を遂げるのか?LY Corporation誕生の影響は、具体的にユーザー体験にも現れ始めています。例えば、LINE、Yahoo! Japan、PayPayを横断する新たな会員プログラム「LYPプレミアム」の無料提供対象からLINEMOユーザーが除外されたことは、同じグループ内のY!mobileやソフトバンク本体のユーザーとの間に明確な格差を生むものと受け止められかねません。これは、LINEMOの「シンプル・低価格」というブランドアイデンティティを守るための戦略的な棲み分けかもしれませんが、ユーザーにとっては分かりにくさや不公平感につながる側面も否定できません。
そうした中、LINEMOは競争力を維持するための具体的な動きも見せています。2024年6月には、新たな料金プラン『LINEMOベストプラン』を発表し、同年7月から提供を開始しました。これは、従来のミニプラン(2024年7月新規受付終了)と同じ月額990円(税込)で、月に合計10GBまでのデータ通信が可能となり、データ超過後の通信速度も実用的な1Mbpsに引き上げられた点が特徴です。実質的にミニプランを置き換えるこの新プランは、ライトユーザーからミドルユーザーまでをカバーし、競合に対する価格競争力を高める狙いがあると考えられます。LINEMOの代名詞とも言えるLINEギガフリーの対象外となるなど、既存プランとは異なる側面も持ち合わせています。(イメージキャラクターもこれまで本田翼氏から川口春奈氏に交代されました。)
このように、新プランの導入やPayPay連携キャンペーンの強化などを通じて、LINEMOはLY Corporationという巨大なグループの中で、独自の立ち位置を模索し続けています。しかし、根本的な問いは残ります。オンライン限定サポートの壁は、いつか、何らかの形で乗り越えられるのか?端末販売の可能性は?そして、LY Corporationのエコシステム、特にデータ連携やロイヤルティプログラムとの統合深化は、LINEMOのシンプルさという本質をどう変えていくのでしょうか?
LINEというメッセージングアプリの野心的な試みから始まり、企業戦略の変遷の中で、デジルの純粋性、LINEの引力、ソフトバンクのネットワークによって定義される、特異なモバイルサービスへと進化したLINEMO。その未来は、LYという巨大な存在の中で、シンプルさを守り抜くのか、それともより複雑な統合の引力に身を任せるのか、まだ定かではありません。メッセンジャーが発する信号は今のところ明確ですが、それを取り巻く環境はますます大きく、複雑になっています。その次章は、まだ白紙のままです。
